■
今日は熱気がもどり
根を詰めて本を読んだらくたびれました。
旧暦の八月十四日、望月は明日のようですが
昨日から立派なお月さんを拝んでいます。
*河原畑にて 色々やつてくださいます。
*大きく撮ればよいというものではないですねぇ
江漢西遊日記
明け方本棚から日本古典全集(日本古典全集刊行会)で出された、司馬江漢の『江漢西遊日記』を引っ張りだして読み始め、夕方なんとか読み終わりました。
大正末から昭和21年の間に全部で267冊が刊行された文庫版の古典叢書。
小生所持のこの冊は昭和2年刊行。しっかりした装丁でしかも天金。
思い出すと大学生のころ、学内で時折あった古書販売(京都市内ににある社会科学系が強い古書店だったと思います)のときに求めたと記憶しています。
昔はどこにでもありましたが、最近は古書店でもほとんど見ません。
西遊日記は江漢じしんによるその長崎旅行の記録ですが、江漢生前は刊行されなかったようです。この本の解題では高齢によりなしえなかったと推測していますが、長崎出島での行動を読むと、このまま出すことは公辺を憚るところが有ったと思われます。結局公刊されたのはこの古典文庫が最初のようですが……。
それはともかく近世紀行文のなかでも勝れた記録として高く評価されています。とくに伊勢から近江、京都など上方にかけての描写は、小生もその後仕事の上でも、大いに利用させて貰いました。
江漢は蘭学者にして絵師……。多彩な履歴の持主ですが、町人の出身でありながら身分を楽楽と超えていくその行動ぶりは悪い意味ではありませんが、一種の「世間師」のような印象を受けます。
旅先で城下に入ると早速家中に通じて、易々と藩主や大身の家臣と出会い。銅版画や蘭画を見せ、大いに喜ばれています。幕府方の隠密と疑われたことを自ら記しますが、そういう印象操作も意図的にやっていたのではないかと思わせます。
面白かったといえば、伊勢参宮から戻る道中、松阪への途中、津の茶人に紹介されて頼りにしていった家を訪れてみたら「儒者、学者、虚名の者、並に物もらひ不可入」と記した札が表に下げてあるのを見て、「回れ右」をした話。これは笑いました。全編こういうことは赤裸々に実名入りで書かれていて、当時の文化交流の実態がうかがい知れます。
また、司馬江漢の墓について、これは当初からは位置を変えつつも、東京巣鴨の慈眼寺にあるようですが、本書の解題にはその碑文について触れていて、
「文化庚午社■月日建之(右横に、茶湯料三両納之)」と刻し、裏には「資堂金入不許万古毀」と刻されてゐる。
とあります。江漢は下って文政元年になくなっているので、それ以前に寿蔵塔として建てられたものですが、面白い。今どきの「永代供養」もいいかげんなものですが、これをわざわざ書いて江漢の人となりを彷彿せしめんとした編者(たぶん正宗敦夫)もなかなかの者です。
*本全集刊行当時なぜか陸軍士官学校に蔵されていた原本はいまは東博にあるようです。また刊本としては平凡社の東洋文庫に入っていますので、今読むならそちらがオススメです。
■
台風はさしたる影響も与えず東にに去ったようです。
朝から巻きあげたすだれを降ろしましたが、吹き戻しの風はさすがにむっとするような湿気を含んでいて、昼過ぎまでは梅雨のようでした。
朝方先日受診した健康診断の結果報告書が到着。退職以来五年間健康診断をしていなかったので、今回はオプションも含めてフルコースでしたが、中性脂肪がわずかに基準値をオーバーしていただけで、ほかは幸いにも所見なしでした。
酒も煙草もやらない、体質的に食べても肥らないので、間食も気にせずぱくぱくやっていましたが、コロナによって出不精になったのも影響あるらしく、これは身体を積極的に動かさねばと、午後にはいり湿気も落ちたので、自転車にまたがり約3時間、気分のおもむくままに走りました。
たしかにストレス食いの傾向がありました。これからは、おやつ代わりにパンを食べるのは控えなくては……。
*近江国庁跡にて
*唐橋近くの路地
*旧膳所城下「椿ヶ原」踏切北側を走る京阪電車石坂線「坂本比叡山口」行き電車
近くには「小姓町」「坊主町」といった名の踏切もあって城下町らしい。