城下町くるり
ここ数日は春の陽気になるそうです。
待ってました。
以下、走った順に。
*唐橋から見た比良山。一昨日の雪がまだ残ってますね。
*石山駅前からちょっとの場所。かつては東レの企業城下町。今はマンション街
昔からちょっと猥雑感があり、きれいでもないけれど、馴染みのあるまち。
*瓦ヶ浜駅近くで。ポカポカ陽気なので電車が来るのを待っていても苦になりません。
*旧膳所城下町に入ってきました。「洋館」がついてます。棕櫚の木もよいですね。
*土塀をめぐらした武家屋敷もめっきり減りました。
*旧城下にはこんなところも……。刻まれた戒名は「院(殿)居士・院(殿)大姉」
ばかり、しかも明治に降らないので旧藩士の墓地ですね。まったく無縁のようで、
世話をする寺も維新後廃寺になったのでしょうか……。
明治から150年たって、まだ誰も手がつけられない様子です。
*電車(びわ湖号)の向こうに比良山が見えてます。
*ここはもとはお医者さんだったはず
*旧藩主本多公をまつる本多神社境内。お稲荷さんですが、古墳ですねこれは。
*横穴式石室の奧に入ると……。
石棺を転用した立派な地蔵石仏。鎌倉くらいかな。「子授け地蔵」とか。
*境内に建つ黒田麹廬顕彰記念碑
以下全文を……。
杉浦重剛ヲ教育シテ大成サセタ膳所藩ノ大学者黒田麹廬先生ハ弱冠緒方洪庵ノ適塾ニ学ビ若クシテ幕命ニヨリ江戸ノ蕃書調所(東京大学ノ前身)ノ教授トナリ将来ヲ嘱望サレテイタ 然ルニ幕末膳所城事件ニヨリ帰藩シ遵義堂ノ督学トナリ後チ師範頭(校長)トナラレタ 先生ハロビンソン漂流記ノ本邦初訳者デアリ ソノ「漂荒紀事」ハ新島襄ヲ始メ青年達ニ多大ノ夢ヲ与エタ マタ先生ハ膳所 大津ニ鉛筆 ペン インク 葡萄酒 写真機 時計ナドノ西洋文物ヲ最初ニ紹介シタ人デアル 先生ハ語学ノ天才デ蘭 英 独 仏 梵語ニマデ通ジ 其著書訳書ハ百種ヲ超エ 福沢諭吉ノ「西洋事情」ニ訂正増補ヲ加エ「天下ニ恐ルベキハタダ黒田アルノミ」ト云ワシメタ 帰藩スルコトナク其儘江戸ニオラレタラ必ズヤ大学者トシテ中央ニ名ヲ挙ゲラレタデアロウト痛惜ノ念ニ堪エナイ 先生ノ生誕百六十年ニ当リ有志相謀リ 祭典ヲ催シコノ隠レタ郷土ノ偉人ノ遺徳ヲ偲ビ茲ニソノ顕彰碑ヲ建テ永ク記念スル
昭和六十二年十二月吉日 有志一同建立
膳所藩は徳川譜代を城主において、京・大坂の前線基地の役割を担ったわけですが
幕末は上記膳所城事件(膳所城事件 - Wikipedia)を出来して維新後批判の的になりました。
やがて昭和天皇に倫理を進講した杉浦重剛が脚光を浴び、面目を回復するわけですが、戦後はその名を知る人も少なくなりました。そんななか1980年代に入って上記の黒田が、当時の滋賀県立図書館長平田守衞の研究・顕彰によってがぜん注目されるようになります。
その資料のまとまったものは「黒田麹廬関係資料」として京大図書館に入っています。
ただ黒田の翻訳は誤訳が多いという話もありますし、
上記の福沢との関係も『西洋事情』に黒田が「増補改訂」をつけて勝手に出版したり
して、問題もなきにしもあらずだったようですが……。
「忘れられた大学者」であったことはまちがいないようです。
魯敏孫漂荒紀事 3巻 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
京都大学附属図書館蔵
昭和61年なのでさすがに漢文ではありませんが、ある種の「調子」がありますなぁ。
それにしても、こういう「顕彰」の行為は、これからは見られなくなるでしょうね。
いまのSNS世代が、歳とってこんな碑を建てるはずは、まずはありえませんもの。
「顕彰碑の時代」は遠くに去りにけりであります。
*城跡で一服しましたよ。